ついこの間、ディズニーが20世紀フォックスを買収したというニュースがありました。それに伴ってFOX内で大規模なリストラがあったという恐ろしいニュースも……。
『女王陛下のお気に入り』はFOXサーチライト・ピクチャーズの作品です。サーチライトの映画ってことごとく当たりで、どれも独特な魅力でおもしろいんですよね。手がける作品に口出しせず、製作陣の思うように作らせてもらえるところが異色。
このままいくとサーチライトまでいろいろ変わってしまうのかな、とちょっと不安に思っているところです。
さて、『女王陛下のお気に入り』。結構前に鑑賞していたのですが、オリヴィア・コールマンがオスカー受賞しましたね。観たらわかると思いますが、そりゃあアカデミー賞とるよね、とため息つきたくなるほどすごい演技でした。わがままで子どもっぽくて、自己肯定感が低く、愛されたい。ちょっと、これほどの演技を最近見たことがなくてびっくりするくらいでした。
イングランドの宮廷を描く映画なのに、監督はギリシャ出身のヨルゴス・ランティモス監督というのも新鮮でした。独特の世界観の映画です。
キャスト
アン女王 – オリヴィア・コールマン
アビゲイル – エマ・ストーン
レディ・サラ – レイチェル・ワイズ
ハーリー – ニコラス・ホルト
マシャム – ジョー・アルウィン
あらすじ
18世紀初頭のイングランド。時の王は女王のアンで、当時絶大な力を誇っていたフランスのルイ14世との間で戦争中だった。しかし、戦争から政治、国の財産に至るまですべてを管理していたのは、アン女王の幼馴染のレディ・サラ(レディ・モールバラ)だった。ふたりは子どものころからの親友だった。
生まれつき病弱でさまざまな持病を抱える女王には政治的能力がなく、アン女王が持たない才能をすべて持つレディ・サラが女王を思うままに操っていた。
そんななか、レディ・サラの従姉妹にあたるアビゲイルが職を求めて彼女を頼ってきた。アビゲイルは上流貴族の生まれだったが、父の賭博により没落していた。アビゲイルはサラの縁故によって宮廷の下働きに採用される。
女王はひどい通風に毎晩のように悩まされ、それを知ったアビゲイルは薬草の知識を活かして女王の寝室に忍び込み、許可もなく薬を塗る。それを知ったサラは鞭を打つよう命じるが、女王が「痛みが引いた」と喜んだため、彼女を侍女に格上げした。
下働きから出世したアビゲイルは、アン女王とサラに最も近い場所でふたりに接するなかで、ふたりが単なる親友同士以上の関係であることを知る。
そんな権力者に近いアビゲイルに目をつけたのが、トーリー党のハーリーだった。彼はアビゲイルの縁戚でもあったため、彼女に女王とサラの弱みを探って報告するよう頼んだのだ。ハーリーらトーリー党は、戦争推進派のホイッグ党と対立しており、戦費がかさむことによって税が引き上げられることに反対する立場だった。つまり、サラと対立する立場にあった。
拾ってくれたサラには恩があるといってあっさり断るアビゲイル。このことをサラに報告し、自分はサラを裏切ることはしないという立場を示すが……。サラは「どちらとも手を組む気では?」と感謝するどころかアビゲイルを空砲で脅すのだった。
没落貴族から這い上がり生きる道を必死に探すアビゲイルは、徐々にアン女王に気に入られていく。そして女王とサラとの間のほころびを見つけるや、自分が付け入るチャンスを狙って野心を燃やすようになる——。
社会の中心であるはずの男性は蚊帳の外
物語はほぼアン女王、アビゲイル、レディ・サラの三者の関係に終始していて、ほかの登場人物は割とどうでもいい存在です。ものすごい百合映画。
この映画で興味深いのは、本来政治を牛耳り社会の中心にいるはずの男達が蚊帳の外であるということ。もちろん対立する両党の中心人物は登場します。しかし、ラストで政敵を追い払って大蔵卿になり勝った気でいるハーリーでさえ、小娘のアビゲイルを利用したつもりでいて逆に掌で転がされているのです。
ファッションとメイク、逆転して社会の在り方を皮肉る?
この映画に出てくる男達は女よりも派手に着飾り、女よりも派手に化粧をしている。女性陣の衣装は白黒で統一されています。ほかの色は一切なし。男性陣はちょっと党の色を取り入れたりしている。アカデミーでは衣装も注目されましたね。現代的な素材をあちこちに取り入れつつ、モノトーンにする、というスタイルは徹底されています。
女性陣はほぼノーメイクか?と思うほどナチュラルなのに、男性陣は流行りの派手なかつらをかぶり、白塗りでものすごくケバい。ハーリーなんてその最たるものです。「男は美しくなければ」なんて言っちゃって。
逆に女性たちはどうかというと、ド派手に飾り立てた男の出で立ちを「何その恰好」と呆れ、服装は極めてシンプルです。また彼女らは男性がするものであるはずの乗馬や猟を楽しむ。
史実ではどうだったかわかりませんが、現代の私たちが観て興味深い演出になっていると思います。3人の女性が絶大な権力を持っていた時代をピックアップし、そこにこういう逆転の発想を取り入れたらどうなるか。
女性はファッションやメイクのことしか頭にない。これってよくあるステレオタイプですが、この映画でそれに当てはまるのは男性なのです。むしろ女性たちはそんなことに関心がない。
とことん愚かな男たち
頭のてっぺんから足の先まで愚かだといっているわけではないのですが、ことこの映画では「男の愚かさ」が強調され、徹頭徹尾愚かな存在として描かれています。
冒頭から所かまわず自慰をする男が登場して面食らうのですが、これって既に序盤でこの作品における男という存在を決定づけているように思えます。
アビゲイルの結婚相手であるマシャムは、彼女の気を引くこと、結婚すれば夜の営みしか頭になく、欲のままに行動する。その間アビゲイルはうんざりとして相手をしつつ女王周辺での立ち回りを思案する。
夜、森の中で欲望のままに行為に耽る男の相手をしている女の目はひどく冷めている。
これがものすごく滑稽なのです。
もちろん、サラやアビゲイルが権力のためにアン女王に対して性を利用する、という場面もたくさんありますが。
野心も愛もないまぜの三角関係
男女の構図はそんな感じで、政治を動かしているのも結局はアン女王、レディ・サラ、アビゲイルの三者でした。
ではこの三者の、せまい世界はどのように描かれるのかというと。野心と愛と、嫉妬と……いろいろです。
自分には「女王」という立場しか価値がないものだと思っているアン女王は、他人が自分にもたらすものが純粋な好意によるものなのか、それともただ「女王」だからなのか判断することができない。子どものころから嘘がなく正直な態度で接してくれるサラのことは愛しているけれど、耳障りのいい甘い褒め言葉をささやくアビゲイルにも惹かれていきます。
アン女王は女王ではない「アン」を認められたい。愛されたい思いが強い。女王はサラとアビゲイルが互いに野心を燃やしながら互いを蹴落とそうとする様を見て、自分を取り合うふたりを見て、愛されていることを実感するのです。
サラはアン女王を愛していたのか?
女王に成り代わって国を牛耳っていたサラ。親友と恋人の立場を利用してアンを操っていただけのようにも見えますが、後半になってサラの立場が悪くなっていくほどに、彼女は本当にアン女王を心から愛しているのだということがわかります。
女王が変なメイクをしていれば「アナグマみたい」と言い放ち、何でもはばかることなく好きに発言していたサラ。アン女王が亡くした17人の子どものかわりに飼っている17羽のウサギには「かわいくもなんともない」と態度で示し、動物を使って女王に媚を売ることをしない。
でも、権力が欲しいからって、アン女王のお気に入りでいることは決して楽なことではありません。事あるごとに呼びつけられるし、笑っていたかと思えばすぐ機嫌をそこねるし、女王と付き合っていくのはほんと面倒だろうなと思う。
終盤で、サラに成り代わって地位を得たアビゲイルの「私何やってるんだろう……」とでも言いたげなむなしい姿を見ると、献身的にアンを支えていたサラってすごいと思えます。愛がなければそこまでできない。
だってサラって公爵夫人で、もうそれだけで十分じゃないですか。そもそもアンにすり寄らなくてもやっていけるだけの才能を持っています。女王と決別したレディ・サラは余所で結構うまいことやったようですよ。
アン女王とサラは、時々互いを「ミセス・モーリー」「ミセス・フリーマン」と呼び合うごっこ遊びみたいなことをしていました。ふたりの間に入り込もうとしていたアビゲイルはその様子を見て「なんじゃこいつら……」みたいな顔をするのですが、もうこの時点でアビゲイルはふたりの間には割り込めないんですよね。少女の頃の遊びをずっと続けられて、そのころの気持ちのまま接する。
サラはアン女王に見限られたあと、何度も手紙を書きます。ものすごい恨み節で暴力的な言葉から始まった手紙は反古にしていましたが、そういう感情が湧き出るということはそれだけの気持ちがあるということ。
アンにしても、ただずっとサラから手紙はいつ来るかと待ち続ける(アビゲイルが捨てているので絶対にアンの手には渡らないのですが)。
ここまでくると、このふたりの関係はとても切ない。手紙を何度も出したサラは屋敷で返事を待ちますが、その末にやってきたのは夫が失脚したという報でした。でも、アンとの最後のつながりが切れたようなこの瞬間、どことなくサラは解放されたような表情でした。
アビゲイルは野心家に「なった」のではない
父のせいで没落し、売り飛ばされるようにして絶望の日々を送っていたアビゲイル。はたから見るととても哀れな存在です。レディ・サラに拾われて感謝し、好意で女王に薬を塗って鞭うたれたヒロイン。サラを裏切れないとハーリーを突っぱねるアビゲイル。
当初アビゲイルは純粋無垢で、地位が上がり女王に近づくにつれ野心を抱き計算高くなっていく。パッと見た感じはそういう人物ですが、アビゲイルは決して野心家に変化していったわけではありません。
彼女はもともと計算高く、賢い人間でした。女王に薬を塗ったのだって計算です。部屋の前の見張りの少年に嘘をついてまで忍び込み、薬をぬったくる。女王が「痛みが和らいだ」といって鞭打ちから解放されると「しめしめ」と思っていたでしょう。
まだ女王は誰が薬を塗ったか知らないとき、侍女になったアビゲイルは女王の通り過ぎざまに「コホコホ」と咳をして「薬草を摘みに行ったから体調が……」なんてこれ見よがしににつぶやく。
まあ、コメディですよね(笑)
サラにハーリーの件を報告したのだって、サラに二心のないところを見せて気に入られたい一心だったからでしょう。それがサラの方が敵意を向けてきたので、「こりゃーサラを攻略するより女王だな」と思ったんじゃないでしょうか。
正直、三人が幸せになる道はアビゲイルがサラの下で能力を発揮する道だったとは思います。そのままでいればサラはアビゲイルを歯牙にもかけなかったでしょうに。やられる前にやるしかない。アビゲイルは自分の生き残りに必死ですから。
そうしてサラを計画的に蹴落として手に入れた地位。ハーリーを利用してマシャムと結婚し上流階級に返り咲いた。アン女王から莫大なお金をもらった。邪魔なサラは消えた。
史実では、アビゲイルはアンの死までは安泰だったようです。映画も終盤、アビゲイルは夜会でひどく酔っ払い、女王に呼び出されるも飲み過ぎでゲロを吐いて寝っ転がる。もはや女王を敬うそぶりもない。
あるとき女王は昼寝から目覚め、ウサギの苦しむ鳴き声に気付きます。アビゲイルが、椅子の下にいたウサギを踏みつけていたのです。女王の前ではあれほどかわいがって慈しんでいたのに。
このシーンが象徴するのは何なのか。女王の前ではかわいがったウサギを、陰で踏みにじっていた。「心の底では女王なんて愛していない、利用しているだけだ」ということだし、「女王がかわいがるウサギ=女王は自分が好きに扱っていい存在」と軽んじていることにもなるでしょう。
サラならば、ウサギに無関心ではあってもそんなことはしなかったでしょう。
女王は直接その場面を見たわけではありませんが、おそらくここで「アビゲイルは自分を愛しておらず、利用しているだけなのだ」と悟ります。しかしもうどうすることもできない。アンを本当に愛していたサラはもういません。女王はこのアビゲイルに対して、「女王の権威で命令」することしかできない。
女王もアビゲイルもただただむなしい最後です。ラストの画面いっぱいのウサギが意味するのは何なのか。ものすごく痛々しいエンディングです。
広角レンズと自然光を使った撮影方法にも注目
照明も夜間の野外撮影以外すべて日光とろうそくの明かりだけを使っていて、独特です。 また珍しいのが、映画なのに広角レンズを使っているということです。つまり画面におさまる空間がものすごく広く見える。画面の端にいくにつれて景色がグンニャリと曲がって見えるので、広角レンズだとわかると思います。
これでかなり人間は小さく見えるのですが、観客はキャラクターに感情移入するのではなく、完全な第三者として彼らを覗き見ているような感じになります。これが結構独特の感覚。見ちゃいけないものを見ている気分になります(実際スキャンダラスですし)。
宮廷社会って華やかできらびやかで、誰もが取り澄ましたような顔をして過ごしている。宮廷を舞台にした作品ってそんな感じですが、『女王陛下のお気に入り』が描きたかったのは気取った宮廷社会のホントのところはどうだったの?という部分かもしれません。みんな権力欲、性欲に忠実で、酔っ払ってどこでもゲロを吐いて……。裏側を覗き見る、そういう感覚が味わえます。
コメディ作品なの?
ここまで観ていて苦しくなるような場面ばかり語ってきてなんですが、実はこの映画ってコメディ部門なのです。
たぶん「え?」と思う人が多いと思う。私も思いました。こんなにしんどいのに?
確かに観てる間はめちゃめちゃ真面目に考えているから笑うところはないんですが、後々考えるとコメディだなあ、と気づきます。アビゲイルのやることなすこと笑えるし、ダンスシーンもなんかすごくて面白いですよ。
男社会のはずなのに権威があるのは女という構図とか、まるで蚊帳の外の男性陣とか、滑稽です。そういうブラックな風刺が後からジワジワきます。もう一回観たらきっと初見よりおだやかに、笑って観れるような気がします。
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