【ネタバレ・レビュー】ドラマ「レ・ミゼラブル 終わりなき旅路」|本家レ・ミゼラブルとの比較

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引用元:フジテレビ
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フジテレビ開局60周年記念企画として放映されたドラマ「レ・ミゼラブル 終わりなき旅路」。すでに前情報の時点で「これはレミゼって言えるの?」と疑問だったのですが、文句言うならちゃんと観なきゃなあと思ってドラマを観てみました。

ひとつのドラマとしては感動的な話でしたが、平成30年の混沌を生き抜く~というテーマにしては、阪神大震災と東日本大震災をちょこちょこっとストーリーに利用する程度で、ちょっとおそまつかなあという印象でした。

それでは、本家との比較を中心にまとめてみます。

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パンを盗んで投獄→殺人で服役

引用元:フジテレビ

本家レミゼの主人公のひとり、ジャン・ヴァルジャンは、たったひとつのパンを盗んだことが理由で投獄されました。理由は、姉の子どもたちに食べさせてやりたかったから。さすがに当時のフランスでも、パンひとつ盗んだからといって何十年も服役させられるわけではありません。刑は5年だったのですが、ジャン・ヴァルジャンは何度も脱獄しようとしたために、結果として19年もの間牢獄の中にいる羽目になったわけです。

一方、ドラマの主人公・馬場純は、詐欺師の夫婦(主犯は夫)に母が騙され、弟の入院や手術の費用をむしり取られてしまいます。お金を返してもらおうと問い詰めに行ったところを、夫婦の夫のほうと揉み合いになり、結果殺してしまいました。正当防衛だったのですが、純はそのまま甘んじて罪を受け入れ服役しています。

パンを盗むのと殺人とではわけが違います。時代背景も関わる問題ですが、この時点で「レ・ミゼラブル」としてドラマを作るのに無理があるんじゃないかなあ……と思ったわけです。

というのも、レ・ミゼラブルという作品は単に善良な男が家族のために犯した罪よりも重い刑を受け、出所すると人の温かさに触れて「自分は○○のために生きよう」と自己犠牲いとわずに生きる、単にこういう話ではないからです。

本家レミゼって主人公はジャン・ヴァルジャンとジャヴェール警部ですが、この二人をメインに、というより群像劇というほうが正しいように思えます。この作品は人物の人生を描くというより、その人生を通して、ヴィクトル・ユーゴーという人は当時のフランスにあって、啓蒙主義を作品に反映させたんです。

だからこそ、「レ・ミゼラブル」の本質がない(というか現代日本ではどうしてもフランス革命以降のフランスと同じような設定は無理)ドラマが「レ・ミゼラブル」と名乗っていいの?と思う。

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時代が違うから「パン一個」と「殺人」の重さは同格になるか?

さすがに現代でパンを盗んで捕まるっていうのは重みがない。

それはわかります。でも、当時だって同じわけですよ。パン盗んだって数年の刑で済みます。ただ、なんでパンを盗むことになったのか、その背景が重い。

ジャン・ヴァルジャンがパンを盗んで捕まったのは1795年のことでした。これはあのマリー・アントワネットがギロチンにかけられた二年後のことです。

マリー・アントワネットといえば「パンがなければケーキを~」という逸話が有名ですよね。実際はケーキではなくブリオッシュで、これを言ったのはアントワネットではなく単にルソーの本に出てくるというだけなんですが、この当時の庶民の困窮っぷりを表わすわかりやすいセリフですね。

フランス革命の始まりは1789年のヴァスティーユ襲撃がきっかけ、というかそこから民衆の怒りが爆発した、というのが正しいですが、ここからいろんな事件が起こってあれよあれよという間に王家や貴族は追い詰められていきます。ルイ16世、アントワネット夫婦も革命によって処刑されました。

さて、王家が倒れて万々歳、というわけにはいきませんでした。王家や貴族による支配が終わっても、パリ市民は相変わらず貧しかった。だからジャン・ヴァルジャンはパンを盗んだのです。ついでに言えば、ファンティーヌは貧しさゆえに体を売って身を滅ぼし、マリウスやアンジョルラスはフランス革命から何十年経っても一向によくならないパリの経済状況をどうにかしようと六月暴動に向かっていく。

一市民のジャン・ヴァルジャンの罪ひとつをとってみても、この作品の背景に何があるかはすぐわかりますよね。これはそういう話なんだと。

ドラマ版にはそういうところがないので(震災とかオレオレ詐欺とか一応平成の時代に起こったことをちょいちょい下地にしているんですけども…弱い)、なんだかなーーーーと思うんです。

ジャヴェールの執念って別に恨みじゃない

もうひとりの主人公はジャヴェール警部です。服役中のジャン・ヴァルジャンをいつまでも囚人番号「24601」で呼び(ミュージカルファンはリズムと一緒にこの数字を覚えてしまいますよね)、執拗なまでに追いかけ回す男です。

ドラマ版でジャヴェールにあたるのが斎藤涼介。純が殺してしまった詐欺師の息子です。この斎藤は、純によって家族が壊されてしまった恨みから純を捕まえようと躍起になります。

警察という共通点こそあれ、本家とドラマ版では明確な違いがありますね。そもそもジャヴェールがジャン・ヴァルジャンを追うのは、個人的な恨みからではありません。ジャン・ヴァルジャンが法を犯し、脱獄を繰り返して最後には身分証を破り捨てて名を変え逃げたからです(身分証には罪状の多いジャンヴァルジャンは「危険人物」と書かれ、就職もままならなかった。仮釈放の身分では毎月出頭して確認印を押さねばならないのに、ジャン・ヴァルジャンはその義務を放棄したため)。

つまり、法を犯しまくったから自分の信念にかけて追い回しているんですね。

ジャヴェールがなぜそこまで法にこだわるか。彼が法こそすべてと思うのは、自分に後ろ暗いところがあるというのが関係しています。ジャヴェールはもともと服役囚とジプシーの女から生まれた子で、子どものころから日の当たる場所で育ってないんですよ。生まれながらにして社会のつまはじき者でした。

そういう立場にあることを絶望し、「このままでいてなるものか」と思い、対極にあるような警察官を目指したんです。自己嫌悪が行き過ぎて同族嫌悪になったというか。出自が出自なだけに、ジャヴェールはずっと黒いものを抱えて生きています。その救いとなったのが「法」で、自分が社会の秩序を守る法に従い法のもとで動いてさえいれば、自分は正しい。自分は生きるに値するのだ、という拠り所だったのだと思います。

だから法を犯したジャン・ヴァルジャンを、妄執といえるほどに執着して追うんですけど、最後は自分が助けられ、まるで聖人のようになったジャン・ヴァルジャンを捕らえることはもはやできなくなってしまった。

今まで信じてきた「法」は、必ずしも正しいわけではない。法にも欠点はあるのだと突き付けられ、その信念が覆されたことでジャヴェールは生きるよすがを失って川に身を投げる、という最期。

ちょっとドラマ版頑張ったな、と思うのは、斎藤にも後ろ暗いところがあるという設定ですね。斎藤は事件を未然に防ぐこともできたのにしなかったという後悔があり、その念を純への恨みにすり替えて生きてきました。ここの設定は重なるところがあります。

「レ・ミゼラブル」かと言われると……

ドラマを最後まで観てみて、これはレミゼかどうかと言われると、「うーーーーーん」というところ。

だって斎藤生きてるし。純逮捕されて終わるし。やっぱりどこか本家のキャラクターの魅力を解釈しきれてないんじゃない?と思ってしまいます。

でも、テナルディエ夫妻にあたる夫婦を出してきたところとか、マリウスの親友のアンジョルラスをチラッと思わせるようなセリフがあったりだとか、意外と原作の登場人物頑張って活かしてるのは直に「おっ」と思いましたよ。

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